備忘録

過ぎ去った思い出

春日部さんの思い出

春日部氏は父(会友)の友人であり共に登山された仲間である。春日部氏の活躍を父から聞かされた事、私が見聞きした事を述べさせていただく。

日本山岳会空白時会員名簿 (1944~1945年) の中に春日部氏の名が載せられ「会の歴史に留める(会員番号.2296)の会員」
としての特筆記事があり、また名簿には棟方志功の名前もありました。特筆記事の内容は、先の大戦でのアメリカ山岳兵との交流記事です。
 春日部氏は、10歳までアメリカはアイダホ州に過ごされています。アメリカ育ちのため憲兵につきまとわれ日米開戦時期にはすぐに徴兵され、転戦の末、
アリューシャン列島のキスカ島に通信兵で配属されています。
アリュート語や露語を少なからず理解し、中京山岳会で培った気象学が因であったようです。米軍暗号解読傍受で空白の時間を解明し、濃霧を利用して
部隊全員キスカ島からの見事な奇蹟の撤収に貢献した記事は氏が50年史「山と谷へ」に述べられています。
また、キスカ島の防空壕に残された日章旗アメリカの山岳兵S.スミス氏が戦利品としてシアトルの自宅に持ち帰り、中京山岳会会員の寄せ書きが入った日章旗であることが判明。

S.スミス氏は「同じ山を愛する山男の日章旗なら是非本人に会って返却したい」と熱望され、日米協会・日本山岳会を通じ氏の健在を確認。
1986年に中京山岳会・キスカ会・日米協会の協力で名古屋ターミナル・ホテルにおいて日章旗の返還が実現しました。
その後、氏はシアトルで開催されたアメリカ軍山岳部退役軍人(10.Mountain Division)の総会に招待され日本の山岳兵として名誉会員を授与され、
また、各国の山岳兵退役軍人会にもS.スミス氏と共に出席。1989年8月コロラド州のベイル村には、氏や私も含め日本人5名が出席参加。
各国の山岳兵退役軍人会と交流しました。

氏の代わりに長野冬季オリンピック決定時期、私が国際スキー連盟の親書を携え白馬村役場へ持参した事やジャンプ台の基礎写真の撮影の手伝いや
滑降コースが志賀高原岩菅山から同裏岩菅山に変更で自然保護団体の猛反対にあった事を思い出します。
1993年初夏、氏が慌しく動いているなって思っていたら、8月15日に日・米両国の80歳以上の老兵が無数の迫撃砲着弾跡が残ったキスカ島を訪問。
日本軍が戦時中に十字架を建てた場所で日米合同慰霊祭が実施され、五日間現地においてテントで共同生活を営みながら戦跡を訪ね、友好を深めたといいます。
私に声をかけてくれたら、カメラ持参で参加したであろうと。 
残念な事に翌年心筋梗塞で倒れ長野冬季オリンピックが開催される前、氏は1995年7月23日他界。

 戦後、氏は㈱CACと云う会社名で、翻訳・企画・出版を手がけていました。これは中京山岳会の頭文字だった自体、山を愛してやまなかった表れかと思います。また、私の手元には氏が原稿として残したアリューシャン関係等の資料が残されています。
歴史を正確に残したいと考えておりますが、家業が忙しく埋もれる事を残念に思います。

 

青春と幸福を母国のために進んで捧げた勇敢な英雄ここにねむる  2009/09/12

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奥様も2008年10月8日に病床の身に。
春日部さん奥様が 2009/07/23 逝去された。
 倒れられた前日に私の妻が奥様宅に伺っていた事も記す。